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連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.72

晩春の蒼い黄昏

 昨夜来の低気圧は昼過ぎまで猛威を振るい、総てを洗い流して東海上へ去っていった。澄んだ空気の中に、花木の芽吹きの匂いが時折感じられる。風はまだ強い。窪みに大きく残された水溜りは、蒼い空を絵画のように縁取っている。足元の水溜りを跨ぐとき、見下ろした地面に空があった。流れの速い雲を見ているうちに、どちらが天地なのか分からなくなってしまった。目眩を覚え、へなへなと水溜りに腰を落として溺れそうになった。遠くに霞む萌黄色の木立が、忍び寄る夕暮れと共に蒼く染まっていく。

 季節を一巡りして、二年目の営業に入った。

三年の契約期間は短いようで長い。屋台村を楽しみにして訪れるお客様の期待に、私は応えられてきただろうか。屋台村になくてはならない魅力ある存在へと育っていけるだろうか。

 カウンター営業の面白さを初めて知った一年だった。お客様との触れ合い、お客様同士の交流。屋台は舞台であった。毎日様々な出逢いがあった。総てが必然であったことは確かだろう。たわいのない雑談の中に貴重な時間があった。お客様の喜びを共有し、悩みを聞き、涙を共に拭い、嘆きを受け止め続けてきた。酒を出し、料理を作ることが仕事の中心ではなかった。一番大切な事は、お客様の想いに寄り添うことだと気づかされた。

あるお客様の体験談を思い出す。お気に入りのバーのマスターが話してくれたという言葉を、私は胸の奥に大事にしまっている。

〈オレが売っているのは酒じゃない。空気だ〉

 屋台へ向かい、厨房の扉を開けると、グラッパの香りが真っ先に鼻孔を擽った。昨夜グラスを洗わずに帰った後、僅かに残されたグラッパはひっそりと呼吸を続けていた。蛇口を捻りグラスに水を落とす。加水されたグラッパは更に華やかな葡萄の香りを開き、時が戻った。

 通路を挟んだ向かいの店で椅子を引く音が聞こえた。今日最初のお客様が席に着いたようだ。路地を歩く乾いた靴音が二重三重に響いてくる。キャリーバックをガラガラと引く音はホテルのチェックインに向かう出張者だろうか。それとも旅行者だろうか。成すべき一日を終えた人々が、薄暗い黄昏に吸い込まれていく。

 BGMのスイッチを入れた。ビル・エヴァンスのアルバム〈ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング〉が流れ出した。透きとおったピアノメロディーが、天井から逆さまに吊るされたワイングラスを優しく響かせた。

屋台村の一日は今から始まる。

カーテンを開けよう。

開店だ。

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連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.71

裁判を振り返って (PART2)

私が選考決定されたのは、四期生契約期間満了一ヵ月半前の二月中旬だった。それは他の出店希望者も同様だ。もし、出店が認められなければ、既存店舗は残された四十五日間で次の展開を決めなければならない。廃業か、移転か、という重い判断をするにはあまりにも短い時間しか与えられていない。実際問題として、他の営業場所を探して移転するということは、物件調査・物件交渉・事業計画・資金準備・契約・設備工事・営業許可取得・開店準備などを短期間で進めなければならず土台無理な話だ。

継続営業を希望する者は、屋台村以外に移転することなど初めから考えていない。〈次はどの場所にシャッフルで変わるだろうか〉〈次も契約できるだろうか〉ということが最大の関心事項であるに過ぎない。そして、出店決定の通知が届く日まで、不安な想いで待ち続けるしか術がない。合格通知をドキドキして待つ受験生のようなものだ。出店が認められなければ生活の糧を失ってしまう。生きるために、意に反することも敢えて甘受し、デベロッパーの意向に迎合する途を選択するしかなかった者もいただろう。

このように考えると、Tらが明け渡しを拒み、裁判で争う姿勢を見せたのも理解できなくもない。過去、複数回再契約を交わしてきた経緯を考えると、出店継続の期待は高かっただろう。審査に通らないということなど思いもしなかったに違いない。五期生募集を機に、反社会的勢力と繋がりのある店舗を徹底して排除する姿勢で臨んだことは、健全な運営のために必要なことだった。しかし、そのために選んだ手段は、審査の結果〈出店不可〉という通知一つで済まそうとしたことであった。事前に面と向かって退店交渉したとしても、一騒動になる可能性はあっただろう。出物腫物に触れるかのように慎重に扱かうための策として〈契約を盾〉に事務的に済まそうとしたことは、裏目に出てしまった。

もし、Tらと同じ立場に立たされたら私も裁判で争うかもしれない。問題は、借地借家法で借主保護のために規定されている〈六ヶ月の猶予期間〉が実質的に与えられていないことにある。熟慮・準備期間が半年あれば、次の営業場所を見つけることは十分可能だろうし、強行規定である借地借家法の目的にも合致する。

この問題点を、私は中居に提言として伝えた。今までは出店の応募期間が十二月いっぱいで翌年一月に試食審査、二月に出店者決定という流れだった。このスケジュールを前倒しして、出店決定通知、或いは出店不可通知と共に原契約の終了通知を、契約終了日から半年遡る九月末迄に行うべきだと主張した。それに伴い、応募期間は八月末までに、審査は遅くとも九月上旬までに済ます必要があるだろう。そして、〈言った〉〈聞かなかった〉という紛争を未然防止するために、終了通知は文書で行わなければならない。このようにすれば、今後裁判で揉めるような事態は起こらないだろう。

今回の裁判で、ひとつの主要争点となった〈アンケート〉の陳述書について中居は語った。

「終了の話がテナント会であったかどうかのアンケートは、私がさせたものではないよ。あれは弁護士が勝手にしたものなんだ。依頼した以上、全部を弁護士に任せたのだから、私はタッチしていない。

弁護士は自分でアンケート作っておいて、自分で困ってしまったんじゃないか」

依頼人の中居と弁護士の意思疎通が、アンケートに関しては十分ではなかったのだろう。法の規定に則って終了通知が大事だと拘った弁護士の認識が、勇み足に及ばせたのかもしれない。もっとも、判旨の通り、その証拠価値は低かったから問題にならないで終わった。

開業から十五年を経てみれば、起業家を育成するという目的の他に、尊重しなければならない別の目的も生まれてきた。それは既存店舗の健全な経営と繁栄だ。「八戸屋台村みろく横丁」の魅力を高めていくのは、二十六店舗それぞれの営業努力に尽きる。テナントを育てていくという意識を今まで以上にデベロッパーが持つことでこそ、中居が目標に掲げる〈日本一の屋台村〉が現実のものとなるであろう。

                      (続く)

連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.70

裁判を振り返って (PART1)

明け渡し請求訴訟から始まった一連の裁判が終わり、得たものは何だったろうか。一回も欠かさずに公判を傍聴してきて、過去にいくつかの問題点があったことを私は感じた。

 契約が期間を区切った定期建物賃貸借という形態を取りながら、実際には更新の性質が色濃くあったことは否定できないだろう。屋台村開設当初の目的は、起業家の育成というチャレンジショップの意味合いが強くあった。三年で経営ノウハウを学び、街なかの空き店舗へ移転を果たし、中心街の賑わい創出に貢献するという狙いがあったはずだ。そのために三年間という期間を区切り、三年毎に店舗は総入れ替えをする予定だった。

 その目的は一部達成されてきたと言える。しかし、回を追うごとに出店希望者は減少の傾向にある。更に、屋台村での営業を続けたいという既存店舗の希望と、店舗継続を支持するお客様の声が相俟って、多くの店舗が三年毎にただ場所換えをしながら営業を続けてきた。初期から十五年に亘って続いている店も何軒かある。デベロッパーとしては空き店舗を屋台村内に作るわけにもいかず、出店継続に当たっては、希望すればほぼ適えられるという契約外の慣例も事実としてあった。

 一方で、契約はあくまでも三年間で終了し更新の性質がないわけだから、再契約のためにはデベロッパーの意向に沿った営業をしなければならないというプレッシャーが屋台店主にはあったはずだ。そこには〈選定する立場〉というデベロッパー側の驕りはなかっただろうか。契約は貸主・借主双方共に対等の立場にあるというのは法律上の建前論であって、契約締結に至るまでの主導権はデベロッパーにあり、借主である屋台店主は常に弱者の立場に置かれていただろう。

                      (続く)

連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.69

報復

予想通り、事件は起きた。四月十日、月曜のこの日、私の店は定休日だったので翌日になってから事の顛末を聞いた。

真夜中十二時過ぎ、屋台村敷地に爆音を立てたバイクが一台乱入してきた。異変に気づいた店主らが数人、バイクの走行を阻んだ。運転していた男は敷地の真ん中にバイクを停め、〈そろそろ〉に向かった。

「綾ちゃん、綾ちゃんは居るか」

男は戸を開け、顔を店内に突き出して言う。

綾子ママは怪訝そうに店の奥から出てきた。

「お前が綾ちゃんか。白い仕事着を着ている奴の店ってどこよ」

声を凄めて威圧的に尋ねる。どこで知ったのか、普段、白いコックシャツで仕事する私を探しているのか。それとも証人尋問の日、上下白の服装だった綾子ママの店を確認しに来たのか。その両方なのか・・・。

「知らない」

怯えたように綾子ママが答えると、男はドアを閉めて立ち去った。

事件を聞かされたその直後、私は中居の携帯電話に連絡を入れた。

「昨晩の事件は耳に入っていますか。直ぐに危機管理体制を整えて欲しいんです」

「話は聞いた。でも、今出張中で宇都宮に来ているから私は直ぐに対応できない。明後日戻るまで、危険がないように現場対応してもらいたい」

「では、警察に相談して対処します」

「頼む」

早速、所轄の警察署に電話をかけた。警務相談課と話が繋がり、裁判から続く一連の経緯を伝えた。連絡体制を警察内部で密にとって直ぐに出動できるようにするから、身の危険を感じたら迷わずに通報するように、と言われて安心した。110番して「みろく横丁です」と言えば、パトカー二台が出入り口の二ヵ所に赤色灯とサイレンを消して急行する手筈が整った。

出張から戻った中居が、私のランチ店に来た。店に来る前に、警察のマル暴(八戸警察署刑事二課)と相談してきたらしい。警務相談課と刑事二課が連携して対応してくれることになった。私は、屋台村全店に向けての危機管理対応と注意喚起を促す文書案を中居に見せた。一読した中居は顔を上げて、手を叩いて言う。 

「そう、さっき警察署でも言われてきた。現行犯で逮捕するのが一番望ましいそうだ。もし、同じことが起きたらどうするか。皆が理解できるように分かりやすく書いてくれないか」

 私は引き受けて、次の文書をテナント会議の際に配布することになった。

〈危機管理対策について

  みろく横丁に深夜バイクが乱入したり、脅しとも取れる言動を屋台店主に投げかけるという事案が発生しています。今後、もし同様の事案があった場合には、どのように対処すべきかを念頭において、相互協力しながら日々の営業に励みましょう。

  いたずらに不安を募らせる必要はありません。あくまでも万が一の不測事態が発生した場合に備えて注意喚起するものです。既に、八戸警察署刑事第二課と警務課相談室との連携体制を整えています。警察署からのアドバイスを基に、次の点を徹底しましょう。

①危険を感じたら躊躇せず、すぐに110番通報する。

②防犯笛を吹いて近隣の店舗に報せる。笛を聴いた店舗は、更に笛を吹き全体に報せるようにする。そして、可能な限り問題の店舗(場所)に駆けつける。

③店舗内に居座られ、言いがかりをつけられるなどで困ったときは、携帯電話のボイスメモ機能やICレコーダーなどで録音する。携帯電話で録画ができれば、それも行う。

  バイクが乱入したときの対処法について、シュミレーションしてみましょう。

1、①②の通り行動しましょう。

2、みろく横丁の出入り口四箇所(三日町側・六日町側・花小路二箇所)を長机等で封鎖しましょう。目的は、被害拡大の防止(お客様を始めとした安全確保)と現行犯逮捕です。

3、バイクが停止したら、急発進などの危険がないようにイグニッションキーを抜き取るか、右ハンドルグリップにあるキルスイッチを押してエンジンを止めましょう。

4、警察が到着するまで、可能な限り犯人の身柄を確保しましょう。

 自身の安全確保が最優先です。以上の行動は、危険がない範囲でとってください。

 現行犯逮捕につなげることで、以後の安全を担保できると共に、毅然とした態度でみろく横丁全体が臨んでいる姿勢を示すことによって犯罪抑止力に繋がります。

  例えば、バイクの進入行為は刑法上罰せられる建造物等侵入罪です。長机等にバイクをぶつけることは器物損壊罪。「そこをどけ!どかないとぶつけるぞ!」と言われたら脅迫罪。バイクが身体に触れただけで暴行罪。びっくりして転んで怪我をしたら傷害罪にあたります。

  店内で脅す言葉を言われたら脅迫罪。お客様が通常のサービスを受けられない状況は威力業務妨害罪。退店を命じても立ち退かない場合は不退去罪にあたります。〉

翌日以降、綾子ママが住むマンション近辺に、不審な男が待ち伏せするかのように出没するようになった。身の危険を感じた綾子ママは、安全確保のためにしばらく実家に帰るという。脅迫まがいの威圧的な嫌がらせに屈するのは、相手の思う壺で問題の解決にはならない。皆で協力して、店舗の警護や送迎をするから、と言っても綾子ママは怖がって聞き入れなかった。数日後、綾子ママは店を男性スタッフ一人に任せて実家に帰ってしまった。

 眼に見えた妨害は、その後起きていない。バイク乱入時にナンバープレートの番号を店主の一人が控えていたが、警察に照会すると偽造プレートだった。チンピラがTの指示で嫌がらせに来たのは間違いない。しかし、証拠はない。

いつ捕り物騒ぎが起きるか、と戦々恐々の日々を重ねたが、事態は次第に沈静化に向かっていった。何事も起こらない平穏な日が当たり前になった。しかし、ただ一人、綾子ママだけは違った。Tらが退去しないことで店を半年営業できなかった上に、やっとオープンを果たしたのに自分の店へ来ることができない。なんとも大きな犠牲を一身で受けてしまった。綾子ママを待っているお客様のために、笑顔で店に立ち、安心して営業できる日が早く来ることを願って止まない。

(平成二十九年夏、綾子ママの笑顔が〈そろそろ〉に戻ってきました)

                                  (続く)

連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.68

判決  (PART3)

続いて、前訴提起に違法性があったかどうかについて述べている。

「原告らは虚偽の事実を捏造して訴えを起こしたこと自体が不法行為であると主張する。

しかし、先に認定したとおり、九月テナント会で終了通知がなかったと認めるに足りない。更に前提事実と証拠等によれば、賃貸期間は平成二十八年三月三十一日で満了すること。無断譲渡については、出店申込みを拒絶したところ他人への譲渡通知があったため、被告は契約解除の意思表示をしたこと。原告らは明渡しに応じず、前訴で定期建物賃貸借契約の成立自体を否認していたこと、以上の事実が認められる」

「上記認定事実によれば、被告会社が契約終了したことを前提として、明渡し請求と損害金の支払を求めたことが、事実的・法律的根拠を欠くもので、被告会社がそのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知り得たのにあえて前訴を提起したとは認められず、その他裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものとはいえないことは明らかである」

「仮に、九月テナント会における終了通知の事実が虚偽であったとしても、前訴を提起した時点では、既に書面による終了通知を行っており(前提事実)、通知から六ヵ月を経過すれば明渡しを求めることができるところ(借地借家法三十八条四項)、原告は定期建物賃貸借契約の成立を否定して、期間の定めのない賃貸借契約の成立を主張して明渡し義務を全面的に争っていたのであるから、九月中に明け渡されることが明らかな状況にはなく、明渡し義務の発生時期はともかくとして、明渡し請求権の有無を裁判において確定させる必要が大きかったものといえるから、前訴が裁判制度の目的に照らして著しく相当性を欠く訴え提起といえないことは明らかである。

従って、被告会社による前訴の提起が違法であるとは認められない」

アンケート作成提出行為の違法性については、次のような理由で一刀両断的に排斥している。

「テナントに対して虚偽の陳述書を作成するように働きかけた事実を裏付ける的確な証拠はないこと。更に、九月テナント会で口頭の終了通知がなかったとは認められないこと。

そして、アンケートは印字された質問事項に丸を付けたり、日付を記入するだけのものであって、記入者が〈九月テナント会で終了通知がされた〉と受け止めた可能性も否定できず、記憶に反して内容虚偽の記載がされたものと認めるに足りない。

仮に、被告会社からの強い働きかけによって、自らの記憶に反する内容虚偽の陳述書を作成した者がいたとしても、アンケートの体裁や記載内容に照らすと証拠としての価値はそれほど大きいものではなく、前訴の審理において積極的な反証活動を行えば足りるものであること」

「また、アンケートは前訴の証拠として使用する目的で作成され証拠提出されたが、裁判外では利用されていない。

更に、前訴については、被告会社が平成二十八年九月二十三日の明渡しまでの損害金の請求などを全部放棄しており、原告らにおいて、九月テナント会で終了通知があったことに基づく直接的かつ経済的不利益は全く受けていないことを踏まえると、例え陳述書の一部に内容虚偽の記載があったとしても、その作成提出行為が不法行為上違法なものであるとは認められない」

「以上によれば、原告らの被告らに対する不法行為に基づく損害賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がない。よって、主文の通り判決する」

胸の透くような明快な判旨だった。

昭和六十三年一月二十三日の最高裁判例を踏襲したもので、敗訴確定か放棄したかに拘らず、裁判制度の利用を過度に抑制してはいけないという基本的人権の保障に則ったものだった。

屋台村側としては、何より早期の明渡しを求めて前訴を提起したのであり、相手方が予告通り九月二十三日に退去した以上明渡し請求訴訟を続ける意味はなくなった。

相手方の訴訟戦略が十分に練られたものではなかったことも、結果的には勝訴に繋がったと思う。判旨にあるように、相手方は前訴での反証活動が足りなかっただろう。反訴での立証活動も十分ではなかった。

定期建物賃貸借契約の成立を否定して、期間の定めのない賃貸借契約の成立を主張するというのならば、まず借地借家法三十八条所定の書面が適法に交付されたか否かを争うのが初動であるべきだっただろう。そして、過去の契約締結の実態を遡って調査すれば、実質的には期間の定めのない契約と看做すべき要因を見つけられたかもしれない。

おそらく、仙台高等裁判所への上告はできない。地裁の事実審と違い高裁は法律審だから、法律の解釈適用の誤りを指摘するような隙間は見つけられない筈だ。仮に上告しても、上告理由がないとして却下されるだろうと思う。

   (続く)

連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.67

判決  (PART2)

次に、不法行為があったかどうかという今回の重要な争点について、双方の主張が挙げられている。

原告・三店舗側の言い分は、九月テナント会で終了通知をしていないのに虚偽の事実を捏造したこと。無断譲渡などしていないのに、虚偽の事実を捏造したこと。この虚偽に基づいて提起された裁判は、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くこと。

そして、終了通知が行われた外形を作るために、虚偽のアンケートを作成させて証拠提出したこと。

以上により、不法行為が認められると主張した。

これに対し被告・屋台村側は、次の三点を以って不法行為の成立を否定した。

無断譲渡については、賃借権の譲渡を受けた旨の通知を受けたが、予め譲渡について承諾を求められていなかったから、そのように認識したこと。

前訴陳述書で提出したアンケートを除いても、契約成立の事実と終了要件充足の事実は裏付け可能であり、認容判決を得られると信じて提起したのだから不法行為を構成しないこと。

アンケートを作成した被告テナントの殆どは、明渡し請求に関して利害を有さない第三者だから、原告らを退去させる動機も特にないのでアンケートの信用性に疑いはないこと。

裁判所の判断は、まず不法行為の成否について検討されている。

九月テナント会で終了通知が口頭で成されたか否か。

「テナント会の配布資料には、終了通知に関する記載がない。アンケートに、一方で終了通知はなかったと記載した店舗があった。上野綾子ともう一人が署名捺印した陳述書(甲47・甲48号証)には〈アンケート記載内容は虚偽で、被告会社の従業員が内容虚偽の陳述書に署名押印するよう頼んだ〉と述べる部分がある。

本人尋問で上野は、口頭で終了通知を受けたと述べるものの、具体的な内容や通知の態様については曖昧な供述しかできていない。しかし、少なくともアンケートは他のテナントと話し合って、その時点での自らの記憶に従って記載したと明確に述べている。

更に、陳述書(甲47号証)は、〈これに署名押印すれば訴訟を取り下げる〉と言われてそのようにしたが、その記載内容は誤りであると明確に述べている。また、もう一人の陳述書(甲48号証)と一言一句同じ内容が印刷された書面にただ署名押印されただけのものであること等を併せ考えると、二通の陳述書(甲47・48号証)の記載内容は信用できない」

「テナント会配布資料には、当日実施される内容として七十項目も列挙されているのに終了通知に関する記載は全く見当たらない。

一方で次期テナント募集の申込みが、平成二十七年十月一日から開始されることからすると、その直前の九月テナント会で口頭説明があった可能性も否定できず、配布資料に項目がなかっただけで終了通知がなかったとまでは断定できない」

「もっとも、アンケートは丸を付したり、日付を記入するだけのもので、終了通知とされる口頭での具体的な説明内容や態様は明らかではない。一方で原告ら作成の陳述書(甲47・48号証)が存在する。

これからすると、九月テナント会に於いて口頭での終了通知がされたか否かについては真偽不明と言わざるを得ない」

裁判所は、終了通知はあったともなかったとも言えないという曖昧な判断を下した。

                                   (続く)

連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.66

判決  (PART1)

判決言渡しの日がとうとう来た。この物語の始めに書いた通り、屋台村側は勝訴した。この日の傍聴人は、私の他にTと相方のチンピラ風の男だけだった。弁護士も出廷しなかった。私はTらと鉢合わせにならないように注意して法廷に入った。

他の裁判事件の判決も立て続けに行われるため、傍聴席には十人ほどがばらばらに座っている。裁判官は主文だけを次々に言渡していく。自分たちの判決を訊き終わった関係者が入れ替わりのように立ち去っていく。判決理由まで聞けると思っていたので、肩透かしのようであっけなかった。Tらも私も〈もう終わったのか?〉という顔で退廷した。

まずは第一報を、と思い中居に電話した。既に弁護士から判決内容を聞いていたようだった。

「ご苦労さん」

中居は電話口で私を労ってくれた。屋台村へ向かい、〈鳥将〉の勝子ママと久美ちゃんに報せた。私の表情を見て、話す前に勝訴を覚ったようだ。喜びと安堵で皆笑顔になった。今日、Tらが来ていたことを話す。

「裁判は勝ったけど、Tが控訴するかどうかは分かりません。問題は判決が確定した後の嫌がらせです。何らかの妨害があるかもしれないので、この後が大事です」

そう、過去に営業妨害まがいの嫌がらせをしてきたTだけに、何が起こるか分からない。控訴を断念した場合、裁判外の手段で威圧してくることは十分に考えられる。用心するに越したことはない。

数日後、中居から判決文を手渡されたので、舐めるように熟読してみた。

まず、前提事実(争いのない事実及び証拠等により容易に認められる事実)として、

「原告三店舗は契約締結の際、借地借家法三十八条二項所定の説

明書面を交付された」

と書かれている。

原告は契約成立の有効性については具体的な争点にしなかったためか、裁判所は契約締結上の瑕疵は被告になかったと簡単に認めている。物語の始めの方で説明した通り、厳密には書面の体裁上問題があっただろうが、それには一切触れていない。私はホッとした。相手方が気付けば、重要な争点になっていた筈だからだ。

また、借地借家法三十八条四項所定の終了通知については、

「平成二十八年三月三十一日をもって期間満了により終了する旨を、同年三月十七日到達の通知で成したが、四月一日以降も原告三店舗は明け渡さなかった」

とされている。以上の二点は争いのない事実だ。

続いて前訴(建物明渡し請求訴訟)の概要だ。

屋台村側の主張は三点ある。平成二十七年九月八日のテナント会で、口頭で終了通知をしたことを前提に期間満了により契約は終了したこと。予備的請求として、仮にそれが認められないとしても、三月十七日到達の通知により契約は九月十七日には終了し、以後の明け渡しを求める変更申立書を提出したこと。三点目として、無断譲渡による解除により、契約は終了したこと。

前訴陳述書のアンケートについては、顕著事実として次のように書かれている。

予め印刷された質問事項に回答する形式のものであること。

「終了することについてテナント会で告知を受けましたか?」の問いには〈はい〉に丸が付され、「告知を受けたテナント会日付」には〈平成二十七年九月八日〉と記入され、署名押印がされていること。

前訴においての三店舗側の主張は、顕著事実として次の三点が書かれている。

定期建物賃貸借の成立自体を否認して、期間の定めのない建物賃貸借契約が成立したこと。

無断譲渡の主張は虚偽であること。

仮に、定期建物賃貸借契約が成立していたとしても、九月テナント会での終了通知は虚偽であるから、書面による通知から六ヵ月を経過する九月二十三日までは適法な賃借権があること。

                                   (続く)

連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.65

屋台マジック

お客様同士の出逢いが、その後の人生を変える転機となる場面をいくつか目の当たりにしてきた。普通の飲食店の席ではあり得ない交流は、袖振り合う密着した狭い空間だからこそ成せる業だろう。隣に誰が座るか、誰も分からない。その時のタイミングと言うしかない。別々の場所から来て屋台を訪れ、たまたま同じひと時を過ごす僅かな重なりの中に、驚くほどの偶然が隠されていることがある。それは最早偶然ではなく、予め仕組まれていたのではないかと思えるほどドラマチックだ。

そのような場面を見るにつけ、〈またか〉という感慨を抱いてしまう。鳥肌が立つくらいの〈偶然〉は、見えない力で屋台に振り注がれた〈運命〉であろう。私はこれを〈屋台マジック〉と呼ぶことにした。

ある晩、地元の女性と出張で来たという男性が隣り合ってそれぞれ酒を楽しんでいた。話題は、何処から来たのかという当たり障りのない質問から始まった。

「東京から出張で、今日八戸に来ました」

「東京のどこですか」

「恵比寿です」

「えっ、本当に!私、さっきまで恵比寿にいたわ」

「出張ですか」

「いえ、休暇を利用して遊びに行ってきたんです。少し前の新幹線で帰ってきたばかりです」

「僕もそうですよ。目黒から東京駅に行って、新幹線で先ほど八戸に着いたばかりです」

「私、昨晩は恵比寿の○○で飲んでいたんですよ」

「あー、知っています。時々利用しますよ」

「あの大きな交差点のところですよね」

「スクランブルのね」

「私たち、あのスクランブルで昨日すれ違っていたかもしれませんね・・・」

感慨深そうに女性が溜め息混じりにつぶやく。

「そうですね。新幹線も同じ便のようだから、近くに座っていたかもしれませんね」

「嘘みたい・・・。同じ所から別々の目的で八戸に着いたのに、今また屋台でこうやって一緒に飲んでいるなんて」

親近感は増し、二人は運命の出逢いをしみじみと語り合った。混み合ってきたため、程なく二人は会計を済ませて別の店へ一緒に出掛けていった。地元ならではのお勧めの店を、女性が紹介することになったようだ。

出逢いがビジネスに繋がり、人生の転機となる場合もある。

ある晩のこと。向かいの店舗で郷土料理を味わっていた男女二人が、会計を済ませると迷わず扉を開けて入ってきた。通路を挟んでこちらを見ていて、次はワインを飲みたいと思っていたらしい。出張で東京から青森に来て県内を廻り、明日には帰京するという。

三十代の男性は細身で髪が長い。フィットしたセーターにジーンズ、そして両手の爪にはビロード色のネールアートがされている。一見、女性のように見えるが男性であることは直ぐに分かった。連れの女性は部下のようだ。聴こえてくる仕事の話題から察すると、税理士法人の会計事務所に勤めているようだ。重めの赤ワインが好みのようで、ボルドーやフロンサックをグラスであれこれ楽しんでいる。 

彼らが三杯ほど飲んだところで男性が一人、扉を細く開けて私に声をかけてきた。一人でよく来店する佐伯さんだった。彼は中に入らず、首だけ突き出して申し訳なさそうに言う。

「マスター、お願いがあるんだけど・・・。財布忘れてきちゃって、明日持ってくるから一杯飲ませてくれない?」

 なんだ、そんなことか。快く招き入れ、いつもの生ビールを注いだ。佐伯さんは、始め私とだけ会話していたが、そのうち出張の二人とも会話が始まった。私は密かに〈面白くなるぞ〉と思った。佐伯さんはまだ三十代で若いが、バリバリの税理士なのだ。

 植村と名乗る男性の仕事の話に、佐伯さんが専門的な知識を交えて加わったものだから、植村さんは佐伯さんの仕事が気になったらしい。

「失礼ですが、ご職業は・・・」

「税理士です」

「えっ、先生ですか。私は税理士ではありませんが、税理士法人の会社で営業しています。事業拡大に当たって、人材を求めて青森に出張してきたところです。専門は?」

「何でもやります」

「ウチは相続が弱くて、クライアントから受けられない案件もあるんですよ」

「相続は得意です。通達だけではなくて、私は判例を読み込みます。過去五年分の通帳から遡って調べて、クライアントの利益を最大に追求します」

 この後、専門的な話で大いに盛り上がり、三人は意気投合した。

「ウチに来てくれませんか」

 植村さんは、名刺を差し出す。

「すみません。屋台村にはプライベートを楽しみに来ているので、普段から名刺は持ち歩きません」

 佐伯さんは非礼を詫びた。

 酒が入っている中での商談は進められた。植村さんたちは本気のようだ。ヘッドハンティングだ。人材発掘に来たものの、望みの成果は得られなかったらしい。最終日の八戸で仕事を離れて飲んでいただけなのに、まさか屋台で理想の人物と行き会うとは思ってもいなかった。

「所長に会ってくれませんか」

 興味を持った佐伯さんは、社交辞令的に引き受けた。佐伯さんはビールのお替りを重ねた。

 佐伯さんがトイレに立った時、植村さんが会計を済ませた。

「佐伯さんの分も一緒に」

三人分の支払を済ませ、戻ってきた佐伯さんと店を出て行った。

翌日、佐伯さんは律儀に支払いに来店した。

「植村さんから佐伯さんの分も頂戴したよ。これくらいはさせて欲しいって言われてね」

「え、まったく・・・」

奢られるのは本意ではないようだが、植村さんの厚意に感慨深そうだった。

「一晩、冷静に考えたんですけど、一度行って所長に会ってみようかと思うんです」

「いいんじゃない。仕事の幅が広がると思う。リスクはないでしょ」

彼は一人で事務所を立ち上げ、八戸の事業者の顧問をしている。首都圏のマーケットは、地方都市と違ってクライアントの数も事業者の規模も、扱う案件の金額も桁違いだろう。

現在のクライアントには、月一度戻ってきて顧問としての仕事を引き続きすることになった。激務だろうが、やりがいに満ちた仕事のはずだ。経験することで必ず何かのプラスになるだろう。順調に行けば、収入は十倍ほどにもなる可能性があるようだ。

後日、佐伯さんが店を訪れた。今日がとりあえず最後の来店だと言う。

「住む場所を決めるため、近日東京に行きます。あの日、ここで植村さんと出会えなければ、何も変わらなかったですよ。あの日のあのタイミング・・・マスターがお金は後でいいよと言ってくれなければ・・・」

彼の眼は希望に満ちて、いつもより輝いて見えた。

「不思議な縁がここでは他にも一杯あるんだよ。きっと、会うようになっていたんだね。

店を開けていてこんなに嬉しいことはない。人と人を繋ぐ場を提供するのがオレの仕事なんだなと思う。おめでとう。素直な気持ちはただ一言、〈嬉しい〉だよ」

話しながら、私の目は少し潤んでしまった。お客様は皆、ここを通過点として成功の道筋を辿って欲しいという思いに駆られた。私は店を開け続けることに意味があると思った。リオちゃんが以前、他のお客様に向かって誇らしげに店を褒めてくれたことがある。

「ヴィエントは本当に良いお客さんしか来ないから」

ゲン担ぎの店と思ってくれれば、店主冥利に尽きる。屋台を始めた甲斐があるというものだ。

このように、男女の出逢いや仕事の繋がりが自然に生まれることは日常茶飯事だ。家に篭っていては何も変わらない。

寺山修司は〈若者よ、書を捨て、街に出よう〉と書いた。何かに行き詰まったり、一人で悶々することがあったら〈気分転換に屋台で呑もう〉をお勧めする。〈求めよ、然らば与えられん。叩けよ、然らば開かれん〉だ。

                                   (続く)

連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.64

同級生

スマホ全盛のこの時代、ラインやフェースブック、ツイッター、インスタなどで情報はあっという間に拡散する。良くも悪くも便利なツールが誰の日常生活にも入り込んでいる。それを販促に活かしている屋台もある。〈みろくバル8〉の店主・堀部君は、フェースブックでお客様に逐一情報を流して、店とお客様の関係を深めている。お客様同士の交流も広がり、それは商売として大いに役立っているようだ。

私は店の情報を屋台村ホームページ以外にはネット上で公開していない。リアルなお客様へのサービスに集中するためだ。お客様が情報を拡散してくれることはある。あるとき小中学校時代の同級生が店の開店を知り、同窓生のライングループに紹介をした。情報はあっという間に広がった。

「あいつが屋台村で店始めたんだって」

約四十年ぶりに懐かしい顔がちらほら店を訪れるようになった。と書けば、同級生の来店を喜んでいるように聞こえるだろう。実際はその逆で、戸惑いの想いをもって店に受け容れていることを彼ら彼女らは知らない。

未熟児で生まれた私は、中学時代でも発育が遅く身長は百四十センチ台で子供のような体格だった。修学旅行で風呂に入ったとき、下腹部がまだ発毛していないのを見られて、皆からからかわれた。それをきっかけに男子からも女子からも「ガキ」とか「無毛症」と馬鹿にされ、苛めのようなものを受けた。学校に行くのが辛くなった。恥ずかしさのあまり消えて無くなりたいと考えたこともあった。それでも学校は休まず通った。

楽譜も読めないのにクラス音楽会の指揮者に多数決で指名された。歌の練習をしても私の言葉に従うわけもなく、取り纏めることなどできなかった。誰もやりたくない面倒な係を無理矢理押し付けられた。休み時間には床に転がされ馬乗りされたり、ズボンを脱がされそうになったりした。面白半分の喧嘩ごっこで殴られたり、鉛筆やカッターで手指を傷つけられたこともあった。それに加わらない連中も、仲の良かった友達も、遠巻きに見ているだけで誰も止めようとしない。

皆、同罪だ。

私の何処がいけなかったのだろう。辱めを受けても当然の理由と責任が、私にはあったのだろうか。個人差のある第二次性徴期の訪れが皆より遅れているというだけで。屈辱の時間を、数の力の前で抵抗もできず、ただヘラヘラと笑ってやり過ごすしかなかった。早く休み時間が終わって授業開始のチャイムが鳴ればいいと思った。当然勉強どころではない。成績は見る間に落ちた。親には怒られ、担任の女性教師には心配され、誰にも言えず、言わず、独りで全てを抱え込んだ。

進学希望の高校入試は落ちた。落ちるのは受験前から分かりきっていた。願書を出す直前、担任から志望校は難しいからランクを落とすよう指導されたが聞き入れなかった。ここで人生を変えたかったのだ。厳格な父の意向もあって、滑り止めの学校は敢えて受験しなかった。一年間、浪人生活を送る道を選んだ。学友の環境を変えてゼロからやり直したかった。三月下旬の早生まれの私も、一年ダブれば今よりは大人の体格に近づくだろうと期待した。思い出したくもない過去、私の人生を遠回りさせた彼ら彼女らと一生決別することだけが希望だった。

国語の授業で太宰治の「走れメロス」を学んだとき、〈セリヌンティウスのような、命に代えても守る親友なんて自分にはいない〉と寂しく想い悩んだ。〈いなくていい〉とさえ思った。社会人になって仕事を通しての交流は広がり、自分が選択した人間関係を築き、家庭も持ち、中学卒業以来の約四十年を生きてきた。同窓会に出席することは一度もなかった。

積み重ねてきた日々が、同級生の来店と共に壊されていく。たかだか小中学校の九年間机を並べただけなのに、その何倍もの時間を生きてきた〈今〉が崩されていく。来店する同級生は、そんな気も知らず懐かしそうにして私を見つめる。消し去りたいと願っている〈あの頃〉に彼ら彼女らの時間は止まったままだ。

無論、全ての同級生を疎んじているわけではない。全ての同級生が悪いわけでもない。しかし、当時のことは何もなかったかのような、悪意のない懐かしむ眼が私の心を乱す。私に何をしたか、私が何をされたか、なんて遠い忘却の彼方に都合よく封印されているのだろう。同級生にとってはとっくに〈時効〉で、傷つけたことを悔やむことすらなく免罪符を手に入れた積もりなのだろう。私は誰とも交わりたくないのに。

「ちょっと、背が高くなったわねえ。私より小さかったくせに」

女子の一人が言う。

「大きくなったな」

先頭きって馬鹿にしていた彼より、私は身長が高くなっていた。こんな言葉にはうんざりする。大きくなって悪いか。自分の子供の成長を見るように懐かしんで見てくれるな。

「オレはガキだったよな」

私が言うと、彼は眼を伏せて顔を赤らめた。彼から他の言葉は何も出てこない。同級生が来るたび、フラッシュバックのように時が戻り、瘡蓋になった傷が掻き毟られる。

もう一つ困ったことは、この八席しかない屋台でプチ同窓会が開かれることだ。例えば週末の書き入れ時に五人ほどで来店し、ノンアルコールビールやソフトドリンク一杯と食事だけで二時間、三時間寛いでいく。その間、うちのワインを楽しみに来たお客様が入れずに立ち去っていく。そして皆、私を懐かしそうに見上げている。本人達は同級生のよしみで売上に貢献している気でいるから余計に始末が悪い。聞こえてくる会話は、思い出話と自慢話ばかりだ。私を肴にして会話に花を咲かせている。私はサーカスの見世物ではない。

私はここから逃げられない。ここから動けない私は、来店を拒むこともできない。まるで時を越えてセカンドレイプされているような心境だ。彼ら彼女らが店に来る必然性を私には見出すことができない。酒も飲まずジュースでいいのなら近くのコーヒーショップにでも行って話をすればいいのに。どうやらお酒の楽しみ方も知らない〈子供〉らしい。

そんな折、やはり人づてに聞いてきたという大島が同僚を伴って来店した。中学当時、既に大人の体格をしていたクラス違いの大島は、苛めなどに加わらない男らしいやつだった。往時を懐かしみ、やはり〈大きくなったな〉と言う。大島は仕事上酒席の接待も多く、酒の飲み方を弁えている。

他のお客様の間に申し訳なさそうに身体を小さくして座った。

「さっと来てさっと帰るから。ビールと持ち帰りにピザちょうだい」

グイグイ飲み干して、ピザが出来上がるまでお替りを重ねる。外で入りたそうにしている人を見かけると、戸を開けて声を掛ける。

「ここ、すぐに空くよ。今帰るところだから。入れるよ」

席を譲る気配りまでしてくれた。

「二十も三十も席があるならともかく、これしか席がないんだから屋台は回転が勝負だろ。美味しかった。他のお客さんには迷惑かけないからまた来てもいいか?」

店の事情まで分かってくれてありがたかった。場を盛り上げる話をして他のお客様を笑いの渦に引き込んだかと思うと、三十分も滞在せずスマートに立ち去っていく。嵐のような男だった。以来、会社の同僚や奥さんと来店を重ねてくれている。どのときも二人だけで来る。席を一席でも多く他のお客様へ譲ろうという配慮だろう。私は大島の来店が楽しみになった。過去を懐かしむ話題ではなく、彼とは〈今〉を語り合える。〈過去〉は振り返る必要がない。

忘れ去られる権利があってもいいと思う。〈私〉はあのとき、思春期の薄明の中で確かに死んだのだ。〈希望〉を毟り取られ、〈誇り〉を踏みにじられ、光の届かない地中深くに殻を纏って潜り、呼吸することをやめた。幼虫と化した〈私〉は孵化する日が来るのをひたすら待った。今、彼ら彼女らの目の前に在るかのように見える〈私〉は虚像に過ぎない。かつて脱ぎ去った抜け殻は朽ち果てた。その残像を探しても見つかる訳が無い。〈私〉は〈私〉でしかないのだから。

                                   (続く)

連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.63

祝杯

当事者尋問のあったこの日の夜、閉店間際に綾子ママが店に来た。必ず来るだろうと思って待っていた。他にお客様はいない。綾子ママはいつものボルドーワインを注文する。

「一杯飲んでよ」

私は生ビールを注ぎ、綾子ママとカウンター越しにグラスを重ねた。

「乾杯。やっと終わったね」

「あれで本当によかったの?」

裁判所で聞かれたことと同じ言葉を繰り返す。

「嘘一つもつかなかったじゃないか。立派だったよ。もう、これで終わったから。よく頑張ったね」

綾子ママはボロボロと泣き始めた。

「辛かったのよ。足はカクカク震えるし。胃は痛いし。私のせいで裁判に負けたらどうしようかと・・・」

「大丈夫。綾子ママにしかできない証言だった。よくこらえたね。裁判官から質問があった〈陳述書〉の署名のことは、逆に相手方の主張を矛盾に陥れることに成功したよ。記憶のままに証言した以上、偽証罪に問われることもない。もし判決が不当なものだったとしても、それは証言のせいではなくて、あくまでも法律上の問題だから綾子ママに責任は全くないよ。そのことは中居さんから皆に説明してもらうようにお願いするから」

綾子ママは、少し落ち着きを取り戻しワインのお替りする。

「裁判所から出るとき、あいつらが寄ってきたのよ。〈どうなるか、分かっているんだろうな〉って脅されたわ。怖いわ」

「それは脅迫になる。少なくても判決が出るまでは何も起こらないよ。そんなことをしたら判決に影響してしまう」

私はTらに待ち伏せされたことを話した。

「大丈夫なの?」

「心配要らないさ。法律を盾にする。何かあったら警察にも相談して徹底的に立ち向かう。一歩も引くつもりはないよ」

「あのとき背中を押してくれたから、気持ちが前に出たの。あれで踏ん切りがついたわ。居てくれなかったらどうなっていたか分からない。ありがとう」

「今まで一緒に考えて、悩んで、やっと今日に辿り着いたね。毎日裁判のことばっかり考えてきて、今日終わってみたらすっきりはしたけど、もう考える必要がなくなったんだと思うと、なぜかちょっと寂しい気がする」

「実は裁判所に行く前に、ワインを一杯飲んできたの。気付けよ」

「はは、しょうがないね。まあ、無事終わったからいいか」

二人で笑った。

スピーカーからは、チャックマンジョーネの〈フィール・ソー・グッド〉の軽快なトランペットが流れている。これから何が起こるか分からないが、そんなことはどうでもいい。二人で頭を寄せ合って苦悩の日々を過ごしてきたことを、他の店の人は知らない。こうやって笑える日が来ることを信じて待っていた。

「遅くなってしまったわ。お会計を」

「要らない。今日は祝杯だから。本当に良かった」

綾子ママは何杯飲んだだろう。昨日までの自棄酒とは違い、今日のワインは美味しかったに違いない。少し足元をふらつかせながら上機嫌で帰っていった。

                                  (続く)

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