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連載小説「黄昏と暁のみろく横丁」 shot.72

晩春の蒼い黄昏

 昨夜来の低気圧は昼過ぎまで猛威を振るい、総てを洗い流して東海上へ去っていった。澄んだ空気の中に、花木の芽吹きの匂いが時折感じられる。風はまだ強い。窪みに大きく残された水溜りは、蒼い空を絵画のように縁取っている。足元の水溜りを跨ぐとき、見下ろした地面に空があった。流れの速い雲を見ているうちに、どちらが天地なのか分からなくなってしまった。目眩を覚え、へなへなと水溜りに腰を落として溺れそうになった。遠くに霞む萌黄色の木立が、忍び寄る夕暮れと共に蒼く染まっていく。

 季節を一巡りして、二年目の営業に入った。

三年の契約期間は短いようで長い。屋台村を楽しみにして訪れるお客様の期待に、私は応えられてきただろうか。屋台村になくてはならない魅力ある存在へと育っていけるだろうか。

 カウンター営業の面白さを初めて知った一年だった。お客様との触れ合い、お客様同士の交流。屋台は舞台であった。毎日様々な出逢いがあった。総てが必然であったことは確かだろう。たわいのない雑談の中に貴重な時間があった。お客様の喜びを共有し、悩みを聞き、涙を共に拭い、嘆きを受け止め続けてきた。酒を出し、料理を作ることが仕事の中心ではなかった。一番大切な事は、お客様の想いに寄り添うことだと気づかされた。

あるお客様の体験談を思い出す。お気に入りのバーのマスターが話してくれたという言葉を、私は胸の奥に大事にしまっている。

〈オレが売っているのは酒じゃない。空気だ〉

 屋台へ向かい、厨房の扉を開けると、グラッパの香りが真っ先に鼻孔を擽った。昨夜グラスを洗わずに帰った後、僅かに残されたグラッパはひっそりと呼吸を続けていた。蛇口を捻りグラスに水を落とす。加水されたグラッパは更に華やかな葡萄の香りを開き、時が戻った。

 通路を挟んだ向かいの店で椅子を引く音が聞こえた。今日最初のお客様が席に着いたようだ。路地を歩く乾いた靴音が二重三重に響いてくる。キャリーバックをガラガラと引く音はホテルのチェックインに向かう出張者だろうか。それとも旅行者だろうか。成すべき一日を終えた人々が、薄暗い黄昏に吸い込まれていく。

 BGMのスイッチを入れた。ビル・エヴァンスのアルバム〈ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング〉が流れ出した。透きとおったピアノメロディーが、天井から逆さまに吊るされたワイングラスを優しく響かせた。

屋台村の一日は今から始まる。

カーテンを開けよう。

開店だ。

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コメント

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■ ありんさん、ご一読あり・・・

ありんさん、ご一読ありがとうございます。屋台村での様々な出会いや出来事は、記録として残すべきだという駆り立てられる想いを惹起させました。書かれた内容はノンフィクションです。今度は、屋台村を舞台にしたフィクションを構想しています。いずれ、お目にかけることができるでしょう。
とっておきのお酒とお料理を用意して、またのご来訪をお待ちしています。

まま | 2020-03-22 10:15 |

■ 全部読みました。 マス・・・

全部読みました。
マスター、すごい??どんどん引き込まれながら、読み耽ってしまいました。
お酒への思い入れ、ヴィエントならではのルール、お店に飾られたオブジェ、いろんなことのルーツが、ちょっぴりだけどわかって、面白かったです。
常連さん達も魅力的な人たちですね。ノンフィクションだろうから、必ずしも気持ちの良い結末にはならないんだろうけど、願わくば、りおさんが幸せになってるといいなあ。
裁判の件では、賃貸契約や経営の難しさを痛切に感じました。反社会勢力という点だけ見ると、完全に?なんだけど、きっと先の3店舗の人たちだって、いろんな想いや希望をもってお店を始めたのだろうと思うと、ちょっと切ない…。
 
長くなってしまったけど、これからも素敵な「空気」を味わいに、たま~に寄らせてもらいます。

追記 続き、書いてね♪
ありん | 2020-03-21 13:33 |
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